絵を描くのではなく 絵の具と遊ぶ
最初の丸いキャンバス
直感と境界線を取り戻しに行く旅 その②
熱海の海が見える部屋で最初のアートワークが始まりました。
用意されたのは、丸いキャンバス。
四角ではなく、丸。
この時点で、もう少しだけいつもの感覚から外される感じがありました。
「絵を描く」というより
絵の具と道具を使って遊ぶ。
そんな説明だったと思います。
アート合宿で一番初めにやるワークらしく
うまく描くとか、何かを完成させるとか、そういうものではありませんでした。
私はなんとなく綺麗でいいなと思った絵の具を選びました。
緑。
青。
少し黄色。
ところどころに、細い色の線。
何かを描こうとしたわけではありません。
海を描こう。
地球を描こう。
森を描こう。
そんな明確なイメージはありませんでした。
ただ、その場で目に入った色を選び
なんとなく手が動く方に塗っていく。
「こうしたい」と思ったら、そうする。
「この色、もう少し重ねたい」と思ったら、重ねる。
「ここに線を入れたい」と思ったら、入れる。
それだけ。
いつもの私ならもう少し考えていたかもしれません。
何を表現したいのか。
どう見えるのか。
意味はあるのか。
完成度はどうなのか。
でもこの時はそこまで考えませんでした。
というよりは、考える前に手を動かす時間だったのだと思います。
絵を描くというより
絵の具と遊ぶ。
その言葉の意味が、少しずつ身体に入ってくるような時間でした。
できあがった私の丸いキャンバスは
緑と青が混ざった、海のような、地球のような
でも何かはっきりとは言えない作品になりました。
自分では
「なんだろう。居心地のいい世界みたいだな」
と思っていました。
グラデーション。
色の深さ。
あやふやだけど、なんかいい。
明確に説明できるわけではないけれど
自分にとって心地いい場所のようなものが、そこに出ている気がしました。
その後、みんなでそれぞれの作品を眺める時間がありました。
ただ感想を言うのではなく、少し変わったアート鑑賞です。
それぞれが預言者になる。
作品を見ながら
①私は何のために地球にやってきたのか
②今どういう課題に直面しているのか
③そしてどうなっていくのか
を語るというセッションでした。
正直、この言葉だけを切り取ると
ちょっと不思議な話に見えるかもしれません。
でも私にはこれは占いというよりは
作品を通じて、自分の奥にあるものを言葉にしてもらう時間
でした。
自分ではうまく説明できないもの。
でも、たしかにそこに出てしまっているもの。
それを他の人の目と言葉を通して受け取る。
そんな時間。
私の絵を見て、仲間たちはいろいろな言葉をくれました。
最初に出てきたのは
地球
自然
海
という言葉でした。
「地球と一緒に遊びに来た感じがする」
「海と戯れに来た感じがする」
「地球とのパートナーシップという言葉が出てくる」
そんなふうに言ってもらいました。
地球を攻略しに来たのではなく
地球を味わいに来た。
この世界の美しさや面白さを
「うわあ、こんなに綺麗なんだ」
「こんな表情を見せてくれるんだ」
と感じるために来たような人。
そう言われた時
ああ、たしかに私はそういう感覚が好きだなと思いました。
海を見ている時。
辛いものを食べて味の奥行きを感じている時。
音楽を聴いて身体が動く時。
誰かの言葉の奥にある本音を見つけた時。
私は、世界の中にある
「これ、面白い」
「これ、美しい」
「これ、なんかいい」
を見つけるのが好きなのだと思います。
別の人からは
音
という言葉が出てきました。
「地球に音を奏でに来た」
「音を鳴らしに来た」
「なおなおにしか聞こえていない音がある」
そう言われた時、これはかなり響きました。
私は声や音を大切にしています。
音声配信もそうだし、歌うこともそう。
自分の声で発したことが、未来につながっていく感覚があります。
言葉として書く前に
声に出すことで、自分の中にあるものが動き始めることがある。
だから
「音を奏でに来た」
という言葉は、とても自分に近いところに届きました。
でも同時にこんな課題も言われました。
本当はいろんな音を知っている。
いろんな音を奏でられる。
でも、いつも同じ音程に戻ってしまうような感覚がある。
もっと違う音を出せるはずなのに
どう奏でたらいいのか分からない。
その言葉を聞いて
私は最近の自分を思い出していました。
いつもの私。
期待される私。
ちゃんと場を回す私。
言語化する私。
明るく振る舞う私。
もちろん、それも私です。
でも、それだけではない音が
まだ自分の中にあるのかもしれない。
その音をどう鳴らしていくのか。
それが今のテーマなのかもしれないと思いました。
また別の人は
一瞬の美しさ
について話してくれました。
ほんの一瞬。
ほんのひととき。
すぐに流れていってしまう時間。
それを、宝石みたいに大切にするために地球に来たのではないか。
そんな言葉でした。
時間はいつも流れていきます。
仕事をしていると、次の予定。
家に帰ると、次の家事。
子どもたちのこと。
発信のこと。
プロジェクトのこと。
誰かとのやり取り。
気づくと、目の前にある一瞬を味わう前に、
次のことを考えている自分がいます。
でも、本当は私は
一瞬の中にある美しさを味わいたい人なのかもしれません。
海と空の境目が曖昧になる時間。
光の入り方が変わる瞬間。
誰かの表情がふっと緩む瞬間。
言葉になる前の気配。
そういうものを、ちゃんと見ていたい。
そのためには
ただただ眺める時間が必要なのだと思いました。
そして、何人かの言葉に共通していたのが
微細な美しさ
静けさ
自分の内側の美しさ
でした。
人が気づかないような小さな美しさを見つける。
それを静かに味わう。
その平和を人とも共有する。
でも今は、外側の音が大きくて
本来の静けさを感じにくくなっているのではないか。
そんなふうにも言ってもらいました。
私は普段、かなり外側に向かって動いています。
人と話す。
場をつくる。
発信する。
企画する。
誰かの話を聞いて言語化する。
プロジェクトを前に進める。
それは好きなことでもあります。
でも、外に向かう時間が増えるほど
自分の内側の音を聴く時間は少なくなる。
私の中にある美しさ。
私が本当に心地いいと感じるもの。
私にしか聴こえていない音。
そこに、もう一度出会い直す必要がある。
そんなことを、作品を通じて言われているようでした。
このセッションの言葉をまとめると
私の丸いキャンバスは、こんなメッセージを持っていたのだと思います。
私は
地球の美しさを遊びながら発見し
自分だけに聴こえる音を声と言葉で奏で
人の中に眠る感性と可能性をひらくためにやってきた人。
今は
外側の役割や頭のざわめきから少し離れて
自分の内側にある美しさと本当の音に出会い直すフェーズ。
そしてこれからは
その音を遊ぶように鳴らしながら
周りの人も楽しくなり、背中を押され
それぞれの美しさに気づいていく場をつくっていく。
そんな流れに入っていく。
この言葉を受け取った時
私は少し不思議な気持ちになりました。
なぜなら、最初はただ
丸いキャンバスに色を塗っていただけだったからです。
何か意味を込めようとしたわけではない。
綺麗に仕上げようとしたわけでもない。
その場で思いついたことをやっただけ。
でもそこに自分が出ていた。
頭で説明する前に
手が選んだ色。
身体が心地いいと感じた動き。
なんとなく残した線。
そういうものの中に
自分の今の状態や、これから向かいたい方向が出ていた。
アートって、こういうことなのかもしれない。
上手い下手ではなく
自分でも気づいていないものが
形や色になって出てくる。
そして、それを誰かに見てもらうことで
自分の中にあるものをもう一度受け取り直す。
この最初のワークで
私はまだ静かに受け取っていました。
地球。
海。
音。
一瞬。
静けさ。
内側の美しさ。
どれも優しくて、深くて
どこか懐かしい言葉でした。
でも同時に感じていたこともあります。
その音を本当に鳴らすにはどうしたらいいのだろう。
自分の内側にある美しさに出会うだけではなく
それを外に出すにはどうしたらいいのだろう。
静かに眺めるだけではなく
身体ごと表現するにはどうしたらいいのだろう。
その問いの答えは
翌日のライブアートで
かなり強烈な形でやってくることになります。
次回は墨が飛び、私がはみ出したライブアートの話を書きます。
あの時間は、たぶん私にとって
「私はここまで出しても大丈夫なんだ」
と身体で知った時間でした。



