墨が飛んだ 私がはみ出した ライブアートで起きたこと
直感と境界線を取り戻しに行く旅 その③
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ライブアートをやると聞いた瞬間
翌日。
2日目のプログラムが始まった時、TŌKAさんから
「今日はライブアートをやります」
という話がありました。
その瞬間、私は思わず目を見開いてしまいました。
ライブアート。
私にとってそれは
TŌKAさんのアートの美しさが一番立ち上がる
真骨頂だと思っていました。
ちなみにライブアートとは、墨と筆を使って
大きな紙にその場でアートを描いていくものです。
時間はだいたい5分から10分ほど。
決められた時間の中で、即興で描く。
その場の空気。
身体の動き。
墨の飛び方。
筆の勢い。
一瞬の判断。
そういうものが全部重なって目の前で作品が立ち上がっていく。
私はTŌKAさんのライブアートに何度も心を動かされてきました。
だからこそ、
「それを自分ができるんだ」
という喜びや高揚感があってもよさそうなものです。
でも、実際に最初に来たのは
高揚感だけではありませんでした。
緊張でした。
そして、少しの怖さでした。
受け取る時間から 出す時間へ
前日の丸いキャンバスでは私はまだ静かに受け取っていました。
地球。
海。
音。
一瞬。
静けさ。
内側の美しさ。
自分の中にあるものを作品を通して言葉にしてもらう時間。
でもこの日は違いました。
受け取るだけではなく出す時間。
しかも、頭で整えて出すのではなく
身体ごと出す時間でした。
正直、始まる前までずっと考えていました。
何をしよう。
どう動こう。
何を描こう。
どう見えるだろう。
いつもの私なら、たぶんここで意味を探します。
この動きにはどんな意図があるのか。
この表現は何につながるのか。
見ている人にどう届くのか。
でも、いざその場に立った時
頭で考えていたことは一気に吹き飛びました。
その時に感じたのは
自分の思いを、動作にして出してみよう
ということでした。
言葉にする前のもの。
説明する前のもの。
整える前のもの。
それを身体の動きとして出してみようと思いました。
頭ではなく 身体が動き出した
私の中にはいろんなものがありました。
葛藤。
外に出たい気持ち。
何かを突き破りたい感覚。
ずっと内側にあったけれどうまく出せなかったもの。
それを墨に乗せて出していく。
白い紙の上に黒い線が走る。
墨が飛ぶ。
腕が動く。
身体が動く。
勢いが止まらない。
綺麗に描こうとは思っていませんでした。
むしろ、綺麗に収めたくなかったのかもしれません。
ちゃんとした形にするよりも
自分の中にあるものをそのままぶつけたかった。
ここから外に出たい。
ここを突き破りたい。
私はここにいる。
そんな感覚でした。
気づけば、墨はキャンバスの外まで飛んでいました。
紙の上だけでは足りなかった。
足元にも、周りにも、墨が飛んでいました。
掃除の時間まで含めて ライブアートだった
終わった瞬間、私は一気に現実に戻りました。
やってしまった。
墨が飛んでいる。
周りを汚している。
みんなの足元にもついているかもしれない。
私は何度も謝っていました。
「本当にごめんなさい」
「本当にすみません」
「もはや本当にごめんなさい」
出し切った直後の高揚感よりも先に、
申し訳なさが押し寄せてきました。
でも周りのみんなは違いました。
「大丈夫、大丈夫」
「取れるから」
「タイルは大丈夫」
「洗えば落ちる」
「これもいい思い出だね」
「汚した甲斐があるやつだった」
そう言いながら、みんなが一緒に拭いてくれました。
私はまだ謝っている。
でもみんなは責めていない。
むしろ笑っている。
動いてくれている。
受け止めてくれている。
その時間がとても不思議でした。
私は汚してしまったと思っていた。
でもみんなはそれを
「やったねぇ〜」
という感じで受け止めてくれていた。
たぶんあの掃除の時間まで含めて、ライブアートだったのだと思います。
描いて終わりではなかった。
出す。
はみ出す。
汚す。
謝る。
受け止められる。
一緒に拭く。
その全部がひとつの流れでした。
もし私が
「汚さないように」
「はみ出さないように」
「迷惑をかけないように」
と遠慮していたら、あの表現は出ていなかったと思います。
墨が飛ぶほどの勢いがあったから
あの作品になった。
キャンバスの外まで出てしまったから
私の中にあるものが見えた。
そして、はみ出したものを
みんなが一緒に拭いてくれた。
私はそこで、身体で知った気がします。
はみ出しても、私は壊れない。
出し切っても、受け止めてもらえることがある。
汚してしまったと思ったものの中にも、表現がある。
直感に戻る場所に 楔を打った
その後みんなからフィードバックをもらいました。
ある人は
私がその場に立った瞬間に表情が変わったと言ってくれました。
「いつもの笑顔とは違った」
「かっこよさが溢れていた」
普段の私はよく笑います。
場を明るくしたい。
人を安心させたい。
楽しくしたい。
それも私です。
でもあの時に出ていたのは
いつもの笑顔の私ではなかったのだと思います。
もっと深くて、
もっと強くて、
もっと剥き出しの私。
表現者としてそこに立った時の
覚悟のようなもの。
それを見てもらっていたのだと思います。
別の人は
爆発的なエネルギーとその後の静けさが美しかったと言ってくれました。
出している時は、すごい勢いだった。
でも出し切った後に静寂があった。
この言葉も印象に残っています。
私は、強いエネルギーを出すことに
どこか怖さがありました。
出しすぎたら、壊してしまうのではないか。
相手を圧倒してしまうのではないか。
場を乱してしまうのではないか。
でも、出し切った後に静けさがあるなら。
爆発の後に、美しさが残るなら。
そのエネルギーは、ただ壊すものではないのかもしれない。
そんなふうに思いました。
そしてTŌKAさんは
こう表現してくれました。
直感に立ち戻る場所に、楔を打ったみたいだった。
この言葉はかなり深く残っています。
前日に私はこのリトリートが終わった時の感覚として
「距離感、見えたな」
という言葉を受け取っていました。
自分と人との距離。
無料と有償の距離。
踏み込むことと守ることの距離。
自分の中に入ってこられたくない領域。
その「距離感」を見に、直感を磨きに来たはずでした。
でも、ライブアートで起きたことは、
距離感を頭で理解することではありませんでした。
むしろ
自分がどこまで出ていいのか。
どこからが自分なのか。
どこまで出しても大丈夫なのか。
それを身体で確かめるような時間でした。
だから
「直感に立ち戻る場所に楔を打った」
という言葉が、すごくしっくりきました。
ここに戻ればいい。
考えすぎた時。
人の期待に合わせすぎた時。
いつもの自分に戻りすぎた時。
自分の音が分からなくなった時。
あのライブアートの体感に戻ればいい。
身体が動いた瞬間。
墨が飛んだ瞬間。
出し切った後の静けさ。
みんなが一緒に拭いてくれた時間。
それが私の中に楔として打たれたような感覚でした。
そしてもうひとつ言われた言葉があります。
もう後戻りしたくてもできない境地に来ているのでは。
少し怖い言葉でもあります。
でもたぶんそうなのだと思います。
私はこの日、自分で自分に見せてしまった。
私はここまで出せる。
私はこんな顔を持っている。
私は綺麗に整ったものだけではない。
私ははみ出す。
私は突き破りたい。
私は身体ごと表現したい。
それを、自分に見せてしまった。
もう知らなかったことにはできない。
でもそれは悪いことではありませんでした。
むしろ、やっと見えたという爽快感があったんだと思います。
はみ出した先に 私がいた
私自身も、終わった後にこう感じていました。
始まる前までは、ずっとどうしようかなと考えていた。
でも、場に立った時に
頭で考えていることではなく
自分の思いを行動や動作として出してみようと思った。
いろんな葛藤。
突き破って外に出たい気持ち。
感情や思い。
それを全部ぶつけさせてもらった。
そして、出し切った後に残ったのは、
感謝でした。
この空間に
自分の感情や思いを全部ぶつけさせてもらった。
そのことへの感謝。
私は、アートリトリートの中で
このライブアートが一番自分を出せた時間だったように思います。
そして同時にこうも思いました。
直感に感情を込めるやり方は、私にとって好きだし、きっと私らしい。
直感だけではなく
感情だけでもなく。
直感に、感情を込める。
それを身体の動きにする。
アートにする。
場に出す。
これは、私にとってかなり大きな発見でした。
私はずっと平和でハッピーな自分でいたいと思っていました。
悔しさとか。
怒りとか。
誰にも負けたくない気持ちとか。
こんなことしたくないという反発とか。
そういうものはできれば持たずにいたかった。
でもライブアートで出てきたものは、
そんな綺麗なものだけではありませんでした。
もっと強くて、
もっと荒くて、
もっと正直なもの。
でもそれが出た時、
私は汚くなったわけではありませんでした。
むしろそこに私がいた。
はみ出した。
汚した。
でも、壊れなかった。
むしろそこに私がいた。
このライブアートは作品そのものだけではなく
その後の掃除も、みんなの言葉も、私の涙も、全部含めてひとつの体験でした。
私はここまで出しても大丈夫なんだ。
それを頭ではなく身体で知った時間。
そしてたぶん
私が取り戻したかった直感と境界線は
きれいに線を引くことだけではなかったのだと思います。
どこまで出していいのか。
どこから先は守りたいのか。
はみ出した時に、誰と一緒に整えたいのか。
その感覚を身体で知ること。
それが私にとっての境界線だったのかもしれません。
次回はライブアートの後に描いた自由制作の話です。
タイトルは、
直感の木。
そこでは私の中にある
狂気的な情熱と反骨精神をもう見ないふりできなくなります。
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